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小石川後楽園・六義園の桜




小石川後楽園の桜

小石川後楽園は江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷
(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。

光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、
天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

 庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配しています。
また、本庭園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。

 この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。
また光圀の儒学思想の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
(小石川後楽園ウェブサイトから引用)













六義園の桜

六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。
元禄8年 (1695) に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、
千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。

「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。
六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、
その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。

明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、
このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。

その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、昭和13年 (1938) には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった。
東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、昭和28年 (1953) に特別名勝に指定されている。
(ウィキペディアから引用)







六義園のシンボルともいえるしだれ桜は、高さ約15m、幅は約20mに及びます。








こぶしです。高さは15mほどあるでしょうか。






千鳥橋は千鳥足で渡ると、ちょっと危険ですよ。ガードマンが傍にいるから、直ぐに助けてくれると思いますが(笑)。









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